1980年代に入り、日本の学校教育のほころびが見え始め、負の部分についての議論が盛んに行われるようになりました。
そして、その根源に過熱する受験競争があるのではないかという意見が主流をしめるようになりました。
もちろん、行きすぎた競争が子供たちのゆとりや個性を潰している面もあるでしょう。しかし、とりわけ受験に限っては弊害の部分が誇張されすぎてきたように思います。
「受験=悪」であるという図式が跋扈(ばっこ)し、ゆとり教育の必要性が強調され始めたのが、80年代後半です。1992年、埼玉県で「業者テスト」が廃止されたのを皮切りに、その動きは全国に波及しました。
2002年、新学習指導要領に基づく、新しい教科書が本格導入され、通知表の評価も相対評価から絶対評価に変更されました。
表向き子どもたちの「ゆとり」は確保されたように見えます。しかし、学力低下を危ぶむ声はますます高まりを見せています。
マスコミで報道されることをとかく私たちは対岸の火事と受け止めがちですが、「学力低下」という深刻な問題は、例外なくこの東毛地区にも忍び込んできています。
この20年の教育界の紆余曲折の中で、私たちは受験に対して一貫したイメージを持ってきました。それは目標に向かって努力することのメリットにもう少し光が当てられてもいいのではないかということです。 志望校合格といった成功体験が「その後の自分の生きる自信につながった」という卒塾生の声を毎年のように耳にします。 一つの目標をクリアするために、何をするべきか、どう時間を活用していくべきか。受験勉強というプロセスを通じて、子どもたちは「成功へのプロセス」を学んでいくのではないでしょうか。 何かをなし得る過程には当然、苦しさが伴います。その苦しさと必死に格闘している子供たちを励まし、その苦しさから逃げ出そうとしている子供たちを時には叱り、彼らの未来図を描いてやれる、これが私たちの役割です。 子供たちを目標に向かって走らせるためには、走らせる側と強い信頼関係が大前提になります。それに彼らと関われる長い時間が必要です。そして、何より教える側、つまり私たち自身に目標がなければなりません。時間を埋め合わせるだけの指導では子どもに「成功体験」を実感させる事は困難です。私どもが専任講師にこだわり続ける理由はまさにこの点にあります。
高校入試の合格者得点が本人に開示されるようになりました。教えることの責任、受からせることへのこだわりから、トップ進学教室の塾生を対象に合格者の結果を取り続けています。そして、そのデータを講師自身の指導目標にしています。 数字至上主義と思われるかもしれません。しかし、スポーツにしても、企業にしても具体的な数値目標とのせめぎ合いの中でドラマが生まれるのです。 私たち自身がこだわりを持ち、目標をもって指導にあたることでより確かな形で子供たちに「成功のプロセス」をつかませる事ができると確信しています。